東京のリスタートを象徴した2つの橋

緑色に深く濁った隅田川

スラム 近代都市

おそらく、今、日本を生きる多くの人が、大して気に留めていないことの話をしていく。後藤新平、太田圓三、田中豊。この三者の名前を見て、何か思うところがある人はよっぽどの橋/日本/歴史ヲタクか、大正時代を生きてきたにも関わらず、ピンピンしていて、むちゃくちゃに感度の高いおばあちゃん、もしくはおじいちゃんだろう。時代は1世紀ほど遡る。メガロポリスとなった現代の東京からは到底想像がつかない、東京がスラム、ゲットーだったとき、一帯を焼け野原にした1923年に起きた関東大震災前後のことだ。教えを請うたのは、過去に当時の橋梁デザインにおける過程と特質をまとめた(ご本人のお言葉を借りれば)枕のように分厚い書籍『近代日本の橋梁デザイン思想―三人のエンジニアの生涯と仕事』を著している、東京大学大学院工学研究科の中井祐教授である。

復興当時の趣がそのまま残っている数少ない場所のひとつ、御茶ノ水駅付近の元町公園。

関東大震災以前の東京は、半ば無意識的に引き起こされた大きな矛盾を抱えていた。日露戦争に勝利した後、明治時代の後半から大正時代の初期にかけて、日本は経済・産業におけるシステムを抜本的に変えようと、殖産興業、富国強兵に躍起になる。本格的な工業化を目指すためにはまず、大量の人員が必要だった。そうして、地方の農家を継がない次男、三男といった若者が東京に一気に出稼ぎにやってくる。大都市一極集中の皮切りである。“躍起になる”と記したのには意味があって、繰り返しになるが、とにかくそのシステムを作り上げることが第一の目的だったため、そこに住む人の生活は後手に回っていたのだ。消防車もまともに通れないような細い道しかなく、上水道、下水道といったインフラがロクに整っておらず、衛生環境も最悪。つまり、東京の街は江戸から大して様変わりしていない、前近代的な状態のまま、その時に至ったのだ。

中井教授の研究室にて。書棚の一角には様々な小説も収められていた。

そんなところに貧しい人たちが大量に押し寄せ、それまで誰も住んでいなかったような場所に勝手にバラックを建てて住み始めるわけで、むちゃくちゃな状態になっていくことは想像に難くないだろう。当時の住民がどう思っていたかは、それこそ到底想像がつかないが、そんな劣悪な環境でも住まなければ“ならなかった”のは、おそらく言うまでもない。ただ、西洋の文化がどんどん入ってきたおかげ(?)で、ソフトだけは年々進化していき、それが先の“矛盾”を引き起こすわけだ。大雑把に記すと、つい最近やってきた、何もわかっちゃいないオペラなんかをわざわざ着飾って聴きに行き、ミルクホール(当時のカフェみたいなもの)で楽しい時間を過ごして、ズブズブな泥道を通り、みすぼらしい家に帰る、という目先の享楽ばかりを求める生活を送っていた。これを特に問題視していたのが、冒頭に挙げた後藤新平。大正時代初期に内務大臣、外務大臣、東京市長を歴任した政治家である。

そして、1923年9月1日。相模湾底を震源とする、マグニチュード7.9の関東大震災発生。

大きな災害は大抵、多くの悲しみを生む。およそ10万人の死者・行方不明者を出したため、関東大震災も当然、生き残った人に混乱と複雑な感情を巻き起こしただろう。しかし、後藤は他の人々とは違う意識の方に向いた。こういうことでもない限りは、大々的に都市開発をするようなことは夢のまた夢と、東京をリスタートさせるための好機と捉えたのだ。近代的な生活スタイル。それに全く見合っていない、前近代的な乏しいインフラ。この格差を解消するべく、帝都復興院を立ち上げ、後藤はそのリーダーとなる。

成熟している都市であれば、壊れてしまったものを元通りにすれば良い。しかし、これまで触れてきた通り、東京はそれではダメだった。“近代都市”である証を作らなければならなかった。東京の中心を流れる隅田川に架ける新しい6つの橋(永代、清洲、相生、蔵前、駒形、言問)の建設を担当することになった、復興局土木部のヘッド、太田圓三とその部下で実務を仕切るエンジニアの田中豊(両者共にそれまで鉄道用の橋づくりに関わっていたため、その見識と経験が認められたが故の採用だった)は考えた。だったら、改革の象徴になるくらいの最先端の橋を作ってやろうじゃないか、と。

復興当時の記録写真。東京大学の書庫で大切に保管されている。

新しい橋の第一条件は燃えないこと。そんなの当たり前じゃないか! とつっこまれてしまうかもしれないが、この時は木造こそ当たり前で、別の素材が用いられることはなかったのだ。そこで、太田、田中は海外から橋の写真を資料として大量(その数、およそ3000と言われている)に取り寄せ、吟味し、鉄で作られていたドイツの橋をモデルにすることに決めた。その理由について、中井教授は憶測を含めながら話す。

「日本のエンジニアたちは、鉄を扱うドイツ人のメンタリティに共感したんだと思うんです。比較対象だった、フランスやスペインのいわゆるラテン系と呼ばれる人々は、主にコンクリートで作っていた。図面に基づいて工場で計算しながら部材を作り、現場に運んで、プラモデルのように組み合わせていく鉄に対して、コンクリートは不確定要因が多い。セメントと砂を混ぜて、大工が作る型枠に流し込んで成型して、時に雨にやられて台無しなったりと、各工程に人の感覚や環境が関わってくるので、精度を確保するのが難しいんです。まあ、そっちの方がクリエイティブっていう見方もできるんだけど、コントローラブルなものが日本人の文化的な価値観にフィットしたんでしょう。おそらく、感覚的に」

少しだけ話が逸れる。太田は文学をこよなく愛し(実の弟は木下杢太郎という詩人である)、夏目漱石の作品もよく読んでいたそうだ。漱石が欧米を模倣していく日本に悲観的だったことは、よく知られている。ヨーロッパとアメリカが作った土俵の上で、同じ戦い方をしても勝てっこない。しかし、その土俵にあがらないと潰されてしまう。目指すべきは日本のオリジナルを守りながら、更新していくこと。太田の気持ちはたぶん、漱石の想いに則していたと考えられる。太田と田中は確かに同じ目的/問題意識をもっていた。しかし、文化人とピュアなエンジニアとの間には溝が存在していたという。

「日本のエンジニアは、良く言えば慎重で確実。悪く言えばチャレンジングなことにネガティブでクリエイティビティに欠けます。田中さんはその最たる例。技術進歩至上主義を貫く超一流の完璧なエンジニアで、最先端の技術こそ社会の進歩に繋がるという信念をもっていた。一方で太田さんは、そういう価値観をもっていなかった。単純な技術主義者じゃなかったんです。実物は残っていませんが、おそらく弟の伝手を使って画家に橋のデザイン案を作らせたというエピソードもあって(結局、採用には至らなかった)、要するに、日本人の美的感覚を反映させたものを作りたかったんでしょう。あくまで想像の域を出ませんが、田中さんがもってきたデザインを太田さんが心の底から満足していたかというと……果たしてどうなんだろうか、とは思ってしまいますね」

永代橋の図面。

現在の永代橋。

現在の清洲橋。

言わずもがな、復興で架けられた橋は先の6つだけではない。小さなものも含め、400を超える。限られた予算のなかで、日本にとって画期的で安全な橋を作らなければならないという、現実的な問題もあっただろう。しかし、永代橋と清洲橋(いずれも中央区に位置する)の2橋に限っては、とりわけ高いお金がかけられたそうだ。鉄の橋は、とにかく軽く、薄く作ることを第一条件としている。これは自重が重くなると、地震などの揺れが起きた際に、自らを支えきれなくなるためである。あえて相撲取りで例えるなら、巨大な上半身に対して脚がやや細い、小錦のような身体と言えるかもしれない。理想は千代の富士である。強靭かつしなやかな美しい筋肉、身軽さも合わせもつ。体重との調和がとれた千代の富士的な体躯が、永代橋と清洲橋には採用されたのだ。これは太田の意地による判断である。

小錦 VS 千代の富士

「ただ軽く、薄くすれば良いかというと、そういうわけではないんです。錆びや車の往来による接合部のガタとか、そういった後々の影響を考慮して永代橋と清洲橋は作られています。先日、この2つの耐震補強の仕事に関わったのですが、多少、構造的に手を加えはしたけれども、まだ50年、いや100年は余裕で健全な状態を保つでしょう。今、見直しても惚れ惚れしますね」

清洲橋の一部に描かれた相合傘。

復興が終わり、江戸由来の空間が姿を消したのが1930年。それから、ほどなくして第二次世界大戦が起こる。抱えなければ前に進めなかった欧米への劣等意識、ほぼ連続して起こった街の破壊。それらが要因かどうかはわからないが、東京はいじらないと気が済まない街になってしまい、現在に至る。今、生きている大人が子供の頃に育った街並みは、すでにすっからかんになり、よくわからない超高層ビルばかりがやたらと自らの存在を主張している。この1世紀で続けてきたのは更新ではなく刷新だ。過去に作り上げられたものは、生活者、街にとっての意味を段々と失っていく。そうして、復興で作られた橋は、ありふれた道のひとつとなった。良いのか、悪いのか。その答えは誰ももっていない。もっているとすれば、多少の違和感くらいだろう。昔の川がどんな色をしていたかなんて全くわからないが、今の隅田川は緑色に深く濁っている。

橋のふもとに溜まったゴミ。

永代橋近くにて。また新しい橋ができようとしていた。

永代橋から隅田川を臨んだ風景。

: 大隅祐輔

2018.7.12(木)


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