1985年の伊丹十三監督作『タンポポ』に写った橋
形勢の逆転、人間関係の密接、そして始まりと終わり
高架下や橋のたもとは、日本の映画においてしょっちゅう喧嘩の舞台になる。今回紹介するのは、そのとりわけわかりやすい例と言えるかもしれない。
処女作の『お葬式』が日本の映画批評におけるラスボス的存在である蓮實重彦からショットがダメだの、そもそもストーリーがなってないだの、しまいには父親の伊丹万作の作品までけなしの対象になり、見事に、綺麗にズバッと一刀両断され(とは言っても、そんな悪評を気にせずに観れば、至極ありふれた、つまらない、形骸化された日本の習慣に参加している人の心理を読み解き、笑いにして変えてしまった、エンターテインメント性が高く高度な良作だ)、おそらく、相当落ち込んだんだろう。『タンポポ』は気合いの入りようが違っていた。
『お葬式』の舞台は主に伊丹十三の自邸の瀟洒で立派なログハウスだった。今、考えると、そんな贅沢な空間を惜しげもなく披露したが故に、蓮實重彦の逆鱗に触れたのかなぁ、とも思う。リッチであること、インテリジェンス、才能があることを(無意識的に)見せびらかしているようにも感じるし、趣味人故に映画を作ること自体も趣味のように感じてしまうし。まあ、ほぼほぼ100%誤りであることは間違いないだろうが、もしそうだとしたら、共感はする。しかし、そこが良いのだ。それらというか、どこか遠目、あるいは見下ろしながら眺めているような(『ヨーロッパ退屈日記』をはじめとするエッセイの文体なんて、最たる例だろう)物事の見方、接し方が伊丹十三の凄みになっているはずなので、嫌味で言っているわけではないことは一応、記しておく。
『タンポポ』は違った。コメディである点、カット割りが細かく、ひとつのフレームに色々な要素が混ざり合っているため、(良い意味で)凝り性らしいせわしなさがある点、といった後にも残る伊丹印は『お葬式』の時点で顕在なのだが、『タンポポ』は視点が街と人に寄り添った、牧歌的であり、しかも社会的でもある、どこかほのぼのする爽快な作品になったのだ。そのことが、橋が写るいくつかのシーンに見て取れる、というのが今回のテーマである。説明不要(というダサい枕詞こそ不要なくらい)の初期の代表作なので、ストーリーの詳細には触れず、かいつまみながら話を進める。
主人公は宮本信子が演じる未亡人のラーメン屋の店主、タンポポ。元々は夫の店だったのだが、夫の死を機に、タンポポが厨房に立つようになる。ストーリーが展開していくのは、たんぽぽが作るラーメンの不味さが原因だ。もうひとりの主人公でタンクローリードライバーのゴロー(山崎努)とガン(渡辺謙)が偶然、たんぽぽの店に立ち寄ると、彼女の幼馴染の内装屋でヤクザまがいのピスケン(安岡力也)と4人の仲間が、こんな不味いラーメンを出しているせいで閑古鳥が鳴いてんだ、と怒鳴り散らしている。典型的な日本の少年の心理である。大好きで大好きで心配なのが本心なんだけれど、突っぱねてしまい、相手にはおせっかいと思われてしまう。嫌気がさしたゴローはラーメンのなるとをピスケンの顔めがけて投げつける。それが発端となり、店前で喧嘩が起きる。1(ガンはほとんど参加していなかった)対5にも関わらず、ゴローはドローに持ち込み、タンポポとその息子のターボーから信頼される。次の日、帰ろうとするゴローをタンポポが引き止め、私にラーメン作りを教えて下さい! と懇願する。いやいや、だったらフツーに他のラーメン屋に行けよ、と思ってしまうのだが、そこは置いておこう。そこから、色々なラーメン屋を回り、特徴を調査し、色々な人のアドバイスを得ながら、タンポポは最高のラーメン、ラーメン屋のあり方を探り、目指していくという、至極シンプルでわかりやすいサクセスストーリーである。
橋のシーン(一部は省く)を順に追っていこう。最初はゴローとガンが店に行く前、ターボーがいじめられているのを止めに入るところ。つまり、ほぼ冒頭から橋が登場するのだ。場所はレインボーブリッジ付近に位置している高浜橋のたもとである。次はピスケンがゴローに、1対5の戦いが不公平だったと詫びを入れ、タイマンを申し込むシーン。ゴローが誰もいない波止場で洗車をしているところにピスケンが話かけるのだが、何故か、大井ふ頭(こちらは高浜橋より少し南)の道路橋の下に移動し、喧嘩をはじめる。1対1だが、互いに健闘し、またドローになり、そこでゴローとピスケンは仲直りをし、ピスケンがタンポポの店を改装することを提案する。そうして、立て直し計画が徐々に軌道に乗っていき、一時の休憩でゴローがおめかししたたんぽぽと焼き肉を食べに行くのが、次のシーンである。
誰でも自分のハシゴを持っているのよね。
そのハシゴの精一杯上の方で生きている人もいれば、ハシゴがあることも気づかずに地べたで寝転んでいる人もいるのよ。
ゴローさんと出会って、私、そのことに気がついたの。
タンポポが人間の生き方をハシゴに例えたこのセリフを言っている間、焼き肉屋の窓の先には夕凪橋という芝浦のこじんまりとした橋が写り込んでいた。それから、形勢はさらに良くなる。タンポポの勝気とひたむきさ、ゴローの優しさと強さはようやくターボーにも乗り移り、ストーリーの後半でいじめっ子たちを負かしてしまうのだ。ちなみに、そのロケーションも橋の下(場所は不明)だった。当然、新しいラーメンが完成し、クライマックスを迎える。美しくリスタートを切ったタンポポの健気さに後ろ髪を引かれながら、ゴローは再びタンクローリーに乗り込み、高浜橋を尻目に店を去り、幕が閉じるのだ。要するに、形勢の逆転、人間関係の密接、そしてはじまりと終わりといった映画のトリガー的な機能を橋がある場所が果たしているんじゃないだろうか、と思えるのだ。
たんぽぽは暖かい季節になると、道端や橋のたもとといった、とても何気ない場所で、さりげなく、しかし健気に咲く。『タンポポ』のことを伊丹十三は、『マカロニ・ウェスタン』をパロって『ラーメン・ウェスタン』と呼んでいたことは有名な話だ(故に、山崎努はカウボーイのような格好をしている)。前者は元々『スパゲッティ・ウェスタン』という他国と同じ題がつけられる予定だったが、映画評論家の淀川長治が、中身がない映画と揶揄し、邦題のみ“マカロニ”にしたと言われている(あくまで説)。対して、『タンポポ』はしっかりと中身がある映画であり、地道に生きている芯が強い、コシのある人間の姿を描いている、という主張のためにラーメン屋をモチーフにし、『タンポポ』というタイトルにしたとも考えられる。同作のもうひとつの特徴が、高級料理に興じる、見栄ばかりを気にする大人たちの滑稽な食事シーンの断片がサブストーリー、対比的に嫌味っぽく、突然、あるいはモーフィングするように差し込まれる点だ。そのあたりの意図を、今更ながら尋ねてみたい衝動にかられるが、監督はすでに“あちら”の世界にお逝きになられているのである。アーメン。
文: 大隅祐輔
2018.7.12(木)