遠藤麻衣子(『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』監督)インタビュー

非映画的超音楽的映画、自由への希求

音楽 映画館

至極一般(極端な言い方をすると、ハリウッド/商業)的な方法に則っていない映画を、これは実験的だねぇ、と簡単に片付けてしまうのはいささか違和感を覚える。誤解を恐れずに記すが、実験というのは文字通り、一種のテスト(例えば、シュトックハウゼンの『習作』シリーズなど)を指すはずで、花を咲かせるための水やりというか、総合的な結果より、むしろ行為そのものに寄った記録の断片だと言える。

ジョナス・メカスの紹介テキストには「アメリカ実験映画界の~」という枕詞が大抵つき、果たしてそうなのだろうか、という疑問を今更抱いている。細かなコマ撮り、極端なクローズアップ、時に観る者に嫌悪感(見慣れてくると、やがて喜びに変わるのだが)を与えるほどの目眩、あるいは視線をそのまま捉えたような手ブレ、チラつく光、悪音質でレコーディングされた語り、撮るに足りないシーンの数々……。メカス作品を“実験的”たらしめている要素はたくさんあるが、自身の中では歴とした意志が存在する。ここで文芸評論家の高橋世織によるテキスト「吉増剛造とジョナス・メカス」と本人の著書『メカスの映画日記』の一節を引用したい。

“一コマ一コマのフィルムのフレームが、一音一音の五線譜上の音符記号に相応する。それが線的(リニアー)に演奏される時、どんなに飛躍や断絶があろうとも、<音楽>として受容されるのに、映写機(プロジェクター)という均質な時間を流しつづける演奏メカニズムでプレイされると、「コマ撮り」手法を多用した映画に、速すぎるとか、チカチカしすぎるなどと、人は違和感を抱いてしまうのはどうしてなのか、と(メカスは)反問する。~中略~もしかしたら自身の映画を、フィルム・メディアに拠る音楽的なプレゼンテーションとして企てているのではあるまいか。”

“平凡な、生気のない、形式的な映画からの離脱はすべて健康なしるしである。われわれは完璧ではなくても、より自由な映画を求めている”

おそらく多くの人は、テレビなどの日常で目にすることが多い公共のメディアに慣れ、縛られ、敬い過ぎている。“個”を全く背後に感じさせない、どこか遠くから、その前で起こっている物事を、ただじっと見つめているようなカメラワーク、「これが答えだ!」と言わんばかりにうるさい効果音を伴って現れるテロップ、形式張ったセレクトのBGM。先のメカス“らしさ”は、単なる実験ではない。強い反論に基づいた、自由への希求のための結果だ。

『KUICHISAN』の1シーン。 ©A FOOL

遠藤麻衣子監督の簡単なプロフィールを見て、2作品『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』を観た後、メカスのルーツ、意志とシンクロしているように思えた。メカスの作品はドキュメンタリーであり、遠藤監督のそれはストーリーがあるし、メカスは起きている時間は大抵カメラを回していると言うが、遠藤監督はいつ何時もカメラを携えているわけではないのだが(前夜祭、『TECHNOLOGY』の封切り、『KUICHISAN』の上映日。その三日間で見かけた監督がもっていた物はグラスとビラとマイクとお祝い花だけで、これはまあ、当然だが、インタビュー当日は手ぶらだった)。

・生活拠点が大きく変わっている点(メカスは強制的にリトアニアからアメリカに亡命した後にカメラを手にし、何の変哲もない世界中の街を撮り続けている。遠藤監督は(おそらくご両親の都合だと思われるが)ヘルシンキで生まれた後、東京に戻り、2000年からニューヨークでヴァイオリニスト、音楽家として暮らしていた)

・カメラがコミュニケーション手段だという点(メカスは当初、英語がまともに話せず、ボレックスのカメラがその役目を果たした。遠藤監督は『TECHNOLOGY』の封切りの日の質疑応答で、カメラを手に取った理由について、「あまり考えを言葉にすることができないからカメラを手に取った」と発言していた)

・監督自身がカメラワークを行っている点(遠藤監督の場合、すべてではないため、正確には誤りなのだが、監督自らがカメラを扱う、つまり一人の個人の視点を介在させるということが普通にはあり得ないため、アプローチとしては共通していると言えるかもしれない)

・激しいコマ撮り、光が生じる場所のクローズアップ、チラチラと映るフィルムノイズらしき線、撮るに足りない(と思われてしまう)風景や人を映している点、ブレ、ボケ(これらは両者に限ったことではない、最早、古典的な手法になっているが)

『TECHNOLOGY』の1シーン。 ©A FOOL, the cup of tea

とまあ、共通点を挙げるとこんな風になると考えられる。しかし、全く異なるのは音楽の扱いだ。先に触れた通り、メカスは映画制作を作曲のように捉えているが、音楽そのものの挿し込み方は至極シンプルで、以上のことを念頭に置けば、ある程度、理解がしやすい。伴奏が不安定だったり、音割れしていたり、突然シャットアウトされシーンが飛んだり(=“飛躍や断絶”)といった具合だ。一方で遠藤監督の作品の場合は、あるテンポの中で切り取られたシーンというフレームにしっかりと音楽がはめ込まれているように感じた。要するに、映画ではなく、映像を伴う70数分間のコンポジションという見方が適しているように強く思うのである。故に、そう思った途端、急に放たれる強烈なノイズや無音の時間が、インターリュード、幕間としての機能を果たすようになる。筆者の見立ては「非映画的超音楽的映画」で、その色が処女作の『KUICHISAN』よりも『TECHNOLOGY』の方が濃くなっている(と思うのだ)。単なる私見/予想に過ぎないが、そういった作品が映画館という大衆的な場所で上映されることは音楽史、映画史においてもなかったのではないだろうか。

そんな屁理屈をインタビューの冒頭に伝えたところ、退屈そうに遠藤監督は「……はい」とだけ答えた。まあ、それも想定内である。これからご本人が許す限り、できる限り、(やり方としては御法度だが、今回はその方が面白いと思ったので)インタビューの一部始終を記していく。話を聞いても尚、屁理屈が大きく誤っているとは思わなかった。遠藤監督が“自由への希求のため”に生き、映画を撮っていることだけは分かったから。

あんまり関係ない話から始めてしまいますが、今もお住まいはアメリカですか?

いや、今は東京ですね。最後の方、追い出されて……。

~少々、間が空く~

(笑)。まあ、こういった間も臆せず、これからいくつか質問をしていきたいと思いますが、大丈夫ですか。

はい、大丈夫です。

まず、音楽的なルーツに関してお聞きしたいです。楽器に関すること、あるいはリスナーとしてどういったものを聴いていたのか。

4歳のときからヴァイオリンを習い始めて、それでずっと。

クラシックですよね。

そうですね。皆がやっている鈴木ヴァイオリン教本とかから始めて、それを卒業して、個人の先生について。あと、オーケストラも小学生の頃から並行してやっていました。19歳の時にアメリカに行ったんですけれども、それでミュージシャンの友達が増えて、今までのクラシックとは違うバンドみたいな、ヴァイオリンをエフェクターに繋げて弾いたりしていましたね。で、リスナーとしては父親がビートルズファンなので、どこ行くにも車の中でずっとビートルズのテープがかかっていて……。

案外、記憶に残っている原体験はありきたりなものなんですね。

いや、本当に普通なんです。典型的な、絵に描いたような、何の変哲もない日本のファミリーで育ったと思って頂ければ(笑)。

(笑)。ヴァイオリンはご両親の勧めですか?

親がやらせた感じですね。なので、自分は全然好きじゃなかったです。けど、やめるのもどうかなとも思いながら、我慢して練習を続けていました。

強制的に何かをやらされるのって、単純にキツくないですか?

ただ、断固拒否って感じでもなかったので。

でも、それから職業になってしまうわけですよね?

まあ、職業っていうよりも、アメリカでビザを取得するため、生きる術ですね。ヴァイオリンができるから、それを使って向こうにいたっていう感じです。

なるほど。話が戻りますけど、ビートルズから始まって、ご自身が意識的に音楽を選ぶようになったのはいつで、どういうものでした?

普通ですよ。子供の頃は日本で当時流行っていたJポップとか聴いていました。

へぇー、例えば?

いや、だから、CHAGE and ASKAとかジェイウォークとか(笑)。

(笑)。

そのあたりも普通なんですよ(笑)。

どこからそれが変わるんですか? アメリカに行ってバンドをやるって言って、そこで何のきっかけもなく、いきなりヴァイオリンにエフェクターは繋がないと思うんですよ、普通だったら。だって、ずっと典型的なクラシックをやり、大衆的な音楽を聴くっていう環境の中で生きていたわけですから。どこかでつまらないな、と思ったんですよね?

いや、クラシックをつまらないとは思っていないし、バンドをやり始めたからと言って、否定をしたわけでもないです。ただ、そっちに誘われたからやったというだけですね。それをやりつつも、オーケストラをやっていましたし。
色んな音楽を選り好みせず聴いてきたっていうのはあるかもしれません。ハードコア好きの友人が何かをお薦めしてくれたら、それを聴いてみたり。ただ、この音楽がなきゃ生きていけないっていうのはないですね。

というか、そもそも音楽をあまり聴かないんです。音楽を聴きながら他の何かをすることができない。一度にひとつのことしかできないんです。

でも、不可解なのが、そういった広い受け皿があるのにも関わらず、映画の中で使用されている音楽は強烈なノイズやいわゆるグリッチを想起させるものであったり、あるいは非スコア的、現代音楽的なアプローチのものが多くを占めていると思うんです。

もちろん、電子音楽とかも聴いてはいたし、でもそれだけっていうわけでもないし。別にそれだけを素晴らしいものだとは思っていない。

音楽を聴きながら何かをすることができないというのは、そっちに意識が傾くから、ということですか?

自分は敏感だ、というわけでもなくて、何故かはわからないけれども、必要としていない。そこに(意図的な)音を必要としていない。例えば、料理をしている時にたぶん音楽を聴いている人は、音楽を必要としているからかけていると思うんだけど。それは爪切りの時でも編み物をしている時でも。誰かのオフィスとかに行くと音楽がかかっているところとかもあるじゃないですか。そういう環境って自分の家の中では落ち着かないんですよね。

たぶん、これは間違った解釈だと思うんですけれども、人工的、意図的な音が入ってくることによって、外の音、つまりその環境が織りなす音がシャットダウンされるじゃないですか。そっち、というか全体的な空気に意識を向けていきたい、身を置いておきたいということなのかな、と。

それは間違いではないけれども、自分が関わる範疇では音楽を聴く時は音楽を聴く体勢にしておきたいだけです。

作品の中で、街中で流れている音楽も多く使われているじゃないですか。それがモーフィングするかの如く、作り上げられた音楽と混ざり合い、やがてそれが占めていくというシークエンスが特に『TECHNOLOGY』には多くあったと思います。今、おっしゃられた環境との関わり方がそこに反映されているのでは、と思ったのですが。

うーん、どうなんでしょう?(苦笑)

どうなんでしょうね?(苦笑) 作品の中に私的な要素が含まれているかと言ったら、決してそうではないですよね。神話という曖昧模糊としたエピソードがベースにあって、それに基づいて構成はされているけれども、シーンの構成によって遠藤麻衣子が無意識的に立ち現れているのではないか、と。

(過去の)インタビューで「神話が……」とか出ちゃうと、神話を重んじている作家だと思われてしまうんだけれども、そこだけで解釈されてしまうのは違うと思う。
神話を読んで理解するということと、体験するとか、自分がその中に入っていくというのは別の話だと思っていて。読書もまあ、大切だとは思っているけれども、体験に重きを置いている。映画を創る時は、自らアドベンチャーをするということを大切にしています。

故に、自らビデオカメラを回した、と。

それについては、本当はすべてカメラマンにお願いをする予定だったんだけれども、コスト的な問題があって自分でやるしかなかった。ただ、やり方AとBがあって、前者が自分でカメラをもつ小規模なやり方、後者が他人が撮るリッチなやり方だとして、両方ともやっておかないと分からなかったというのもあるのですが。

ただ、陳腐な言い方になってしまうのですが、理由はどうあれ、ご自身がカメラをもっているということが作品において功を奏していると感じるんですよね。テクニックに寄らないことで、ピュアな個人が強調される。別の言い方をすると、抜群の音響環境で音を聴くことだけが最高なのではなく、安価なイヤフォンで聴いたものもひとつの体験であることには変わりはないわけで、時と場合によってはむしろ凌駕する時がある。

でも、私の場合は抜群の音響環境で聴く音楽も知ってはおきたい。

思い切り予算がかけられて、自分が理想とするキャスティング、スタッフィングが作れる状況を望みますか?

機会があれば何十億でも使います。ただ、それが一番とも思っていない。けど、自由でいたいから。何十億も使えたら絶対自由にはなれない。

『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』は自由にやれました? 率直に満足はいっているんですか?

自由になるために戦いました。満足というか、これはこれでしかないと思っています、どちちも。

『KUICHISAN』の1シーン。 ©A FOOL

『TECHNOLOGY』の1シーン。 ©A FOOL, the cup of tea

編集にかなり時間をかけられたんですよね?

『KUICHISAN』が1年10カ月で『TECHNOLOGY』が1年2カ月だったと思います。とりあえず器用でないことは確かで、楽な方法はあるはずなんだけれども、全ての方法を試してからまとめるっていう傾向はある。

映像があって、その後にトラックがつくんですか? それとも逆ですか?

大体は画があって、その後に音ですけれども、どちらもありますね。ただ、画が先であっても、まず簡単に並べて次のプロセスに移る時点で音を入れて、同時進行で編集している。一般的に、どうしているかは分からないんですが。

まず脚本があって、画をつけて、そこから作曲というフローが一般的だと思いますね。要は、音はあくまで画に対する効果ですよね。

私の場合、かなり早い段階から画と音が一緒になっているから、音との距離が近いと思われるのかもしれません。

確か、封切りの際にイメージフォーラムで行われたQ&Aでおっしゃっていたと思うのですが、かなり凝縮されてあの形になっているんですよね?

『KUICHISAN』の方が10分のフィルムが53本とデジタルを使っていて、おそらく全部で20時間以下くらい。それが最終的に76分で、『TECHNOLOGY』の素材に関しては10時間くらいだと思います。普通ってどのくらい撮るものなんですか?

(PR担当の倉田氏)もっとタイトに撮りますよね。

カット割りを決めて、それにはめ込むように撮るのがおそらく一般的かと。

ドキュメンタリーのようでもあったから。あと、撮影期間が長いかな。『KUICHISAN』が5週間で『TECHNOLOGY』が7週間。ずっと撮ってはいるけれども、使わない部分ももちろんいっぱいあって。『TECHNOLOGY』の方はほとんどすべて一発撮りなんです。

一発撮りなのにそんなに長いんですね。

町にある使わないものをとにかくたくさん撮っていましたから(笑)。まあ、きちんとしたドキュメンタリーに比べたら大したことないでしょう。

それはそうですが。素材に成り得るかも、という予想の元、とりあえず撮っておくということなんですか?

もちろん、ある程度、目ぼしがついているものだけ。これを撮らなきゃと思って撮ったんですけど、『KUICHISAN』に関してはバサバサ切っていった枝、エクストラが何本もある。でも、それを潜ってこなければ、“これ”もなかった。そういう意味では、脚本は一応あるのですが、ちゃんとプランニングして、ここからこれを撮りましょう、今日はここまで、といったスタイルとは違う。まあ、自由にやっていますね。

では、今おっしゃられたしっかりとプランニングされた、超システマティックなスタイルで映画を撮ってみたいっていう気持ちはありますか?

もっと自分が違う感じで作品を撮りたいなと思ったら、自分の中で規則を作っていくと思うし。気分だと思います。

規則に対して反発しているわけではない、と。

別にないです。それをやって良いものを生み出している人は良いと思うし。ただ、自分がそういうやり方を選んでこなかっただけ。

ここまでお話をお聞きして、理屈ではなく、とにかく自由に、フィジカルに動き、選択をしていきたいという気持ちがまず大きいのかな、と感じます。

理屈は、それはそれで良いのだけれども、そこを通り越したものの方が向いている。

向いている(笑)。

はい(笑)。

『TECHNOLOGY』の1シーン。 ©A FOOL, the cup of tea

『KUICHISAN』の1シーン。©A FOOL

ここで話を少し変えたいと思います。当初の話に戻りますが、何故、映画、そして映画館で上映する必要があったのでしょう? 例えば、ギャラリーなどでも良かったと勝手に思っているのですが。

ただ映画が好きだったから、です。美術とかそういうものは通ってきていなくて、小学校の頃、美術か音楽かを選ばなければならない時に音楽やっているからそっちで良いか、って。ニューヨークに行っていたけれども、アートというアートにはあまり馴染みがなかったんです。ヨーロッパには土壌にあるじゃないですか。

要は、美術館の中にわざわざ飾られているものをわざわざ観に行くという状況がなかった、っていうことですよね。

そうそう。“Art for, art’s sake(芸術のための芸術、19世紀初頭にテオフィル・ゴーティエが掲げた言葉)”みたいな考えが自分の中にはなくて。絵描きにもなれたかもしれないけれど、そこを通ってこなかったから選び取らなかった。映画って大衆芸術だから崇高ではない。そこが(心に)触れた部分。でも、作り方が分からなかったから、最初は右往左往しながらだったけれども、何とか出来上がった。

ビデオカメラが良い点というのは、自らの体験をシークエンスで収められるからですか?

~人が我々がいた部屋の脇を通る~

世界の出来方というか、こうやって喋っている間、どうして人があそこを通ったんだろう、とか、そういう現象をひとつひとつのフレームの中に収められる。それは写真だったら一瞬なんだろうし、動き、リズムとして現わせるのが面白いのかもしれない。

話がまた戻りますが、何故、フィルムがメインなんですか? 現象を収めるのが第一義であれば、極端な話、携帯のカメラとかでも良い気がしています。きちんとした実機をもつ必然性がそこにはない。

ロマン。
映画をいつまで撮れるかもわからないし、一回切りだと思ったら、高くてもフィルムでやるべきだという意識はありました。

消えてなくなってしまうかもしれないものへのリスペクトとして?

小さな頃の自分の姿を映したビデオがハイ8だったんです。はじめて自分が手にしたビデオカメラはデジタルだったけれども、20代の半ばくらいにスーパー8を買って、フィルムの良さに改めて気づかされた。光が違っていた。それで、沖縄(『KUICHISAN』の舞台)で撮るっていうことになった時、沖縄の光もあるし、あとは霊的な、空気に立ち現れるものを撮りたかった。デジタルで撮れないということはないと思うんだけれども。

確かにそれはあるかもしれない。あの沖縄の暑さというかジメジメした空気というか、それがフィルムのおかげで現れている気はしますね。

それと、自分の環境的な部分が大きくて、日本で作っていたら、たぶんフィルムで撮っていなかった。ニューヨークのインディペンデントシーンではフィルムで撮っている人がまだまだいるんです。そういった人たちを見ていたら、自分でも出来ないわけがないって思いますよね。もし周りに一人もいなかったら、大変なことのように思えたんだろうけど。

実際、フィルムだと、どのくらいの費用がかかるのでしょう?

10分撮れるもので1本、1万何千円。現像はアメリカでして、もちろん現像代は高いし、トランスファーしないといけないし。そういったことが積み上がっていって、結局、100、200万円くらいかかったかな。

それをもし、デジタルに置き換えたら……?

(倉田氏)下手したら、1/5とか1/4くらいになりますよね。

そうだね。最後、35mmに焼きつけているから、そこにもお金がかかるし。日本でやったらもっと高いから、間違いなく無理。アメリカは安くてその金額だから。

それは(アメリカではまだ)やっている人がいるから、もしくはフィルムを残そうという動きがあるから、安く成り立っているんですか?

どちらもですね。KODAKとかも頑張っているし。向こうの映画監督たちは団結して意志を表明したりっていう動きもあるし。私はフィルム至上主義ではないけれども、チョイスができるのは良いと思う。日本にはないから。

なるほど。ちなみに、またアメリカに戻られるんですか?

もう戻れない。ブラックリストに載ってしまったから。一生、観光客としても行けない。ハワイも無理。でも、いつかは絶対に戻ってやるって思っています。

『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』 https://www.kuichi-tech.com/

2018年7月20日まで、シアター・イメージフォーラムにて再レイトショー。http://www.imageforum.co.jp/theatre/

: 大隅祐輔

2018.7.12(木)


Next Article